前回にひき続いて、「なめられない保育」について紹介します。僕は、保育者が保育を語るにおいて「(子供に)なめられるな」と言い出したら、それは超特大の危険信号だと思っています。なぜなら「なめられるな」という物言いは、「威圧」的な保育につながるからです。子どもの成長を見守る保育士にとってどんな保育が必要なのか考えてみましょう。
威圧的な保育が招く、悪循環!
たまたまその施設に「威圧」を使う保育者が一人いるという程度ならば、その負荷を周りの人が受け止めて、保育をさほど無理のない状態に持っていくことは可能でしょう。
しかし、その施設の大半の人が「威圧」で子供と関わるようになってしまえば、けっして安定した保育をすることはできなくなります。
威圧により作り出される子供たちの問題を、威圧によって押さえ続けていく。これでは対応がさらに原因を大きくするので完全な悪循環におちいってしまいます。
この状態は「保育の破綻」と言えるでしょう。
威圧の保育が幼児クラスの大変さを招く
こうした威圧の保育は現実にどのような状態を招くのでしょうか。
それは「幼児クラスの大変さ」として表れてきます。
例えば、年中、年長クラスが毎年毎年子供たちが大変になるケース。こうなると、そこには「怖い先生」「怒り方が上手い先生」を担任にし続けなければならなくなってしまう。
この悪循環にはまると、保育者は際限なく疲弊していきます。
みんな口には出さないけれども、「幼児クラスは持ちたくない」とか「年長はやりたくない」「あのクラスの担任だけはしたくない」といったネガティブな思いを抱えてしまいます。
これでは、保育の仕事は少しもやりがいや満足感を感じられずに、モチベーションがだんだん燃え尽きていってしまいます。
職員の定着率にも悪影響
しかも、「なめられるな」といった威圧の保育に疑問を持たなければ、なぜ子供たちが落ち着かないかがわからず、
それを保育の問題とは考えず、「子供のせい」「保護者のせい」ととらえ、子供や保護者の悪口、陰口を叩くようになっていきかねません。
そういう気持ちを心の奥底に持っていると、保護者対応も不十分・不適切になり、保護者との信頼関係も低下し、クレームが増えたり、親とのトラブルが頻発するようになったりもします。
これはさらにモチベーションを下げます。
結果的にそういった園では職員の定着率も悪くなります。
威圧や支配のような強い関わりは、それをする人が少数だったとしても、その影響力は大きくなってしまうものなのです。
「受容と信頼関係の保育」に変えていこう
では、保育をどういう方向に変えていけば良いでしょうか。
保育に関して言えば、目指すべき方向は明らかで、それは「受容と信頼関係の保育」です。
完全にすぐそれをなくすことは無理にしても、少しでも威圧や支配でない保育を目指していこうという空気を施設全体で生み出していくことが大切です。
ですから、園内研修などを活用して全体の学びとして「受容と信頼関係の保育」を考えていくといいでしょう。
「甘え」は悪いものか?
「なめられるな」で保育をとらえている人は、「甘え」を悪いものと考えています。
しかし、本当にそうでしょうか?
子供は大人の保護がなければ過ごすことができない存在です。
誰かに頼り、安心、安全を得たいというのは、どの子供も持っている根源的な欲求と言えます。
それの表現のひとつが「甘え」です。
もし、子供を養育する大人が過保護だったり心配性だったり、神経質だったりして子供を過剰に受け止めすぎたり、守りすぎたり、世話を焼きすぎたりすればそれは「過度な甘え」「過度な依存」となる場合があり、これは子供の生育上好ましくありません。
しかし、だからといって子供が安心して過ごすための必要不可欠な「甘え」までも否定してしまうのは保育としてあるべき姿ではありません。
子供が安心して過ごせる「甘え」は、育ちに必要不可欠!
おそらく保育士としては、子供の「自立を育まなければ」という意識があるのでしょうけれども、「甘えをシャットアウトすれば自立ができるようになる」というのは短絡的すぎる考え方です。保育のもっとも基本は、「子供が安心、安全に過ごせる」ことです。
安心、安全があるなかでいろんなことに挑戦すること、ときに失敗することも含めてその上で子供はさまざまな成長を得ます。「自立」もその中のひとつです。
ですから、保育士とは「子供に安心、安全を保ってあげること」がその職務の第一なのです。「甘えを受け止めること」も必要な範囲でそれに当たります。
子供は、安心・安全を保ってくれる保育者に信頼を寄せる
保育者が安心、安全を保ってくれていると、子供は自然とその保育者に信頼を寄せてきます。
その状態が日々維持されるだけで、子供はさまざまな必要なことを自分で身につけていくことができます。すごく極端なことを言えば、それがまっとうできているだけで保育者の仕事は十分なのです。
しかし、ここであるものがそれを邪魔します。
それは、「大人が介入することで子供の正しい姿を作り出さなければ」という先入観です。
これは、保育士も含めて現代の大人の多くが、この先入観にとらわれているといっても過言ではありません。
子供に「介入」することが保育士の仕事ではない
例えば、子供同士が遊びの中でモノの取り合いをしたとします。
ほとんどの人は、それを見逃さず、すかさず介入することが保育士の仕事だと思っていることでしょう。
「ハイ、ケンカしないで!
それ○○ちゃんが使ってたよね。返しなさい。ハイ、仲直りして。
人が使っているものは取ったらいけないのよ。
ね、わかった。
いい?お約束よ!」
それが小さい子相手だったら、子供に言い聞かせる方向ではなく、なだめたりごまかしたりする方向で対応するかもしれません。
「あら~。あなたもそれ使いたかったの。こっちにもっといいものあるわよ。
あなたはこっちにしたら?
え、それではいやなの。
じゃあ、○○ちゃんが使い終わるまでまっていようね」
こちらだと一見やわらかい対応になっているように感じられますが、本質的には上の対応とある一点で同じです。
それは、「干渉によって子供を”正しく”しよう」という大人の作為があることです。
大人の介入は、子供が自分で学ぶ機会を奪ってしまう
多くの人は、もともと保育者になる以前から、こういった「干渉すること=子育てor保育」と考えがちです。しかし、子供がなにかを本当に身につけていくときというのは、大人の干渉によるものではありません。
どのようにものごとを身につけるかというと、「信頼する大人が、その行為をどう思っているか?」というところを、絶えずキャッチしながら自分で学んでいくのです。これは、その子とその保育者の間に信頼関係が厚ければ厚いほど、それは無理なく達成されていきます。
だから、子供を受容し信頼関係を作ることさえできれば、保育は無理なく行うことができるのです。
それは保育者に子供の方から無理なく寄り添ってくれる状態をもたらします。
それが当たり前になっていけば、子供にくどくどと注意することも、声を荒げて管理しなければならないこともなくなっていくでしょう。
子供が自分で理解し、成長する姿へ導くのが保育です
例えば、子供自身が「人のおもちゃをとらないようにしよう」と思う理由が、「それをすると保育者が注意するからしない」というのでは、単に管理されてその姿になっているだけであって、子供が本当に身につけたことではありません。
「子供になめられるな」で保育をとらえている人が目指してしまうのは、この「子供が大人に上手く管理された状態」であって、「子供が自発的に成長して理解した姿」ではないのです。
本来、この「子供が自発的に成長して理解した姿」を、さまざまな配慮によって作り出せることに保育士の専門性があります。だからこそ、保育における子供の「自主性・主体性」の視点が保育者にはとても重要になってきます。
プロフィール
保育士おとーちゃん(須賀義一)
1974年生まれ。大学卒業後、男性としてはまだ珍しかった保育士(当時は保父)資格を取得する。
2009年、保育士としての経験などを元にブログ『保育士おとーちゃんの子育て日記』を開設。
現代の子育てに合った具体的な関わり方を伝えつつ、多くの人からの子育ての悩み相談にも応える。
著書に『保育士おとーちゃんの「叱らなくていい子育て」』『保育士おとーちゃんの「心がラクになる子育て」』(ともにPHP研究所)など。
東京都江戸川区出身、墨田区在住。一男一女の父親。